社会に出てから、長い間「英会話」を習っていた。先生はアメリカ人、ミシガン州出身。日本人の女性と結婚し日本語も流暢であった。いつも「私の英語はアメリカ標準英語。」と言っていた。確かに話す英語は透き通るように綺麗なものだった。日本で最も有名な学校のひとつである英会話学校の筆頭教師でもあった。ある時「東京大学の英語の入試問題に挑戦してみたが、難しすぎて半分もできなかった。特に長文読解は古いイギリスの書物から取って来ているようで、全然わからなかった。」と悔しがっていた。その時は東京大学の入試問題はアメリカ人でもわからないほど難しいのだな、とだけ思っていた。
それからしばらくして、偶然にこの大学の教授と話す機会があった。その時「私の教えているクラスで英会話についてアンケートをとったところ、日常英会話に自信があると答えた学生は3%しかおらずびっくりした。」と嘆いていた。あの難しい入試英語を突破して来ているのに英会話に自信がない。何かおかしい。
一方、私が知る限り、すべての小・中学校にプールがある国は日本だけである。四方を海に囲まれた島国大国日本ならではの教育の一環なのだろう。しかし、今プールでは泳げるが、海では波があって泳げないと言う子どもが続出していると言う。確かに事故や責任問題もあり、昔ながらの臨海学校が姿を消しつつあることにも要因はあるのだと思う。でも何かおかしい。泳げるようにすることだけがプール教育ではないのは知っているが、基本、海や湖、川など自然の中で泳げるようにするのがプール教育の元ではなかったのではないだろうか。それが実践できないでいる。
東京大学の英語の入試問題も同じである。英語は話せることが一番大事で、いくら英語の文法や読解ができても話せなければ、全く意味がない。これも実践できていないのである。最高学府を出る学生でもこのような為体(ていたらく)。本末転倒だと言わざるを得ない。しかし、このようなことは、英語やプールの教育だけに限らない。日本の学校教育では大小さまざまな形で多々起こっている。教育関係者も子どもを持つ親も、このことはしっかり見極める必要がある。
知識を増すための勉強は有意義だと思う。知識が増せば知恵はより多く生まれるからである。しかし、教育=勉強ではない。教育とは先人が経験し、知り得たことを後人に残し、「生きる」ための術(実践)を前もって教えることだと思っている。文字を発明した人間だけが持ち得た技なのである。本末転倒な部分もある今の教育、もう一度、初心に還り見直してみてはどうだろうか。
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