子どもの頃よりいろいろな本を読んだ。その中に「野火」という本があった。それまで物語や伝記のような本ばかり読んでいた私が初めて出会った小説の一つであった。内容は第二次大戦末期にフィリピンのレイテ島に出兵していた兵士が体験した、戦争の悲惨さを生々しく描き出した物語。読むほどに頭に自分なりにその情景が浮かび上がった。若かったこともあり鮮烈であったことを覚えている。しばらくしてこの物語が映画化され、学校の授業として映画館で観ることになった。原作を読んでいた私はそれなりの期待もあった。しかし、観た映画は内容を知っているせいもあったのだろうが、全くつまらなかった。本を読んだ時ほどの感銘がなかった。
人は情報交換するときに頭の中でその情報を文字ではなく無意識に絵として描いていると思う。Aが持っている情報をBに伝える時、Aの頭の中の絵が情報としてBに伝わり、BがAの頭の中の絵に近づけば近づくほど会話がうまく通ずる。伝える側はより詳しく、相手が同じ絵を描けるよう配慮しなくてはならない。受け取る側も細部に至るまで確認しなければならない。しかし、人間の育った環境や知識に差があり、全く同じ絵が描けないことの方が多いようだ。それが仕事にも、勉強にも支障を来たすことが多々ある。
読書を子どもの頃より習慣付けるとは、脳内で想像する力を増すことになると最近になって強く思う。私が読んだ「野火」は痛烈にそのシーンごと頭の中に色付けされ、次から次へと頭の中を回転した。全ては文字という情報を読み、そのシーンを想像していたのだ。しかし、映画で観た「野火」は私には想像するものが全くなかった。誰が見ても同じであっただろう。
「人の話を聞いて想像する。」これは家庭や学校での子どもたちも毎日行っている行動である。しかし、今ここで述べたように同じ情報を聞いていても明確に絵の描ける子どもとそうでない子どもがいる。質問の多い子は無意識のうちに自分の描いている絵が先生や親の言っていることと同じか否か、すり合わせをしようとしているのである(自分が理解出来るまで)。そうでない子は違った絵のままで記憶にとどめてしまう。勉強が出来るか・出来ないか、頭が良いか・悪いかはここで分かれるような気がしてならない。「阿吽(あうん)の呼吸」や「一言うと十を知る」という慣用句があるが、これはそれを象徴している言葉の一つではないだろうか。
お問い合わせ
CONTACT
TEL 03-3237-9801
10:00~17:00(土日祝祭日は除く)