雨上がり歩道を歩いていると、反対側の歩道で小学生低学年らしき二人が傘を刀のようにし、ものすごい勢いで喧嘩しているのを見かけた。一人は泣きながら、もう一人は何度も何度も自分の傘を振り回していた。止めようと思い道を渡ろうとした時、後ろから来た上級生らしき5〜6年生の体の大きな男の子が止めに入った。聞かん坊の方の男の子は泣いている子どもが悪いと言い張り、止めても傘を振り回すことを止めなかった。止めに入った上級生が「今度は俺が相手になるぞ。」と泣いている子の傘を取り上げ、傘をかざしながら少し強い口調で聞かん坊の子どもにどなりつけた。すると、この聞かん坊の男の子はスッと、その傘を下げた。そして、思いっきり早足で逃げて行ってしまった。面白い光景に出会えたなと思った。なるほどと。
昔から喧嘩がなぜ起こるのかといつも疑問に思っていた。意見が合わないから、嫌いな相手だから、俺の方が喧嘩が強いからなどなど、その根本をずっと知りたいと思っていた。しかし、この子どもらの喧嘩を見て、長年持っていた疑問の答えを見つける事ができた。「喧嘩は力関係がごく均衡している時だけにしか起こらない。」ということである。圧倒的に強い相手とは喧嘩が起きないのである。私でさえ間違ってもプロレスラーとは喧嘩をしない。相手の方が力において圧倒的という事を悟っているからである。「勝敗が事前にわかってしまうからである。」
喧嘩という暴力行為だけでなく「争い」を総して、人間は能力、学力、体力、経済力などごく均衡している時にだけ、その「争い」が起きるのであろう。 考えてみれば、一個人に起こる「争い」などというものは小さなものであると思えた。私は総理大臣ではないので、私の周りでは外交問題などのとてつもなく大きな「争い」など起こることは決してない。私の周りで起こる出来事(争いを含め)は小さなもので、努力すれば自分で必ず解決できるものばかりであるということを改めて悟った。少し「遅かりし」かもしれない。
大学受験で頑張る日本の受験生。トップといえば「東京大学」。しかし、QS世界大学ランキング(注1)でみれば32位、京都大学でも50位である。多くの私学は100位にも入れない。国内の受験での「争い」などここも均衡しているだけにすぎない、均衡している同士ばかりと思えれば少し気持ちが楽になるのではないか。世界という視野でみれば、ごく小さなことだからである。小学校受験、中学受験、高校受験もそう考えられると、もっと豊かな思考で大らかになれるのではないだろうか。しかし、このように書いている私も含め日本人は島国根性のDNAがある限り、なかなか発想を変えるのは難しいことなのだろうかとも思う。
*(注1)QS世界大学ランキングは、イギリスの教育評価機関であるクアクアレリ・シモンズ(Quacquarelli Symonds)が毎年発表している大学ランキング(最新2025年版)より。
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